宇野遺跡(宇野のお塚さん)

宇野塚

天正5年(1577年)、信長に中国地方攻略を命ぜられた秀吉が播磨国に進攻。播磨の諸大名は二分し、信長、秀吉側に属した小寺政職、小寺(黒田)官兵衛などと、毛利に組した宍粟の領主 宇野民部(宇野下総守政頼)などに分かれた。

天正8年(1580年)4月
秀吉山崎に到達。ここに宇野一族の伝説と哀話が始りを告げる。

聖山城跡

山崎町、聖山(ひじりやま)城跡

長水城攻め

小寺氏と宇野氏は対抗関係にあり、官兵衛の秀吉への進言で討滅するところとなったと言われている。その詳細は「播磨佐用軍記」慶長6年(1601年)によって伝えられているが、より歴史資料として用いられている「信長公記」によれば、天正8年正月に三木城を陥れた秀吉軍は天正8年4月に宍粟郡に入って宇野民部の属城、伊和郷岡城、杉ヶ瀬城、高家郷都多村の城、千草郷黒土の城(家臣石原右京)などを乗っ取り、250余を打ち取った後、本城の長水城を包囲した。

紅葉橋

敗走と紅葉(もみじ)橋伝説

宇野一族と城兵は40日余りの激戦を繰り広げるが、内通者が出るなどして城は炎上。

宇野政頼らは、美作竹山城主 新免伊賀守宗貫(政頼の三男)を頼ろうと夜陰に紛れて城を脱出、秀吉軍は木下平太輔と蜂須賀小六らが追跡、紅葉橋伝説が残る小茅野を経て鷹巣に入り、その所々で戦いながら黒土から千草に到着したものの、折柄の雨で増水した千種川を渡ることが出来ず、ついに5月9日、河呂の大森の段で政頼以下の一族が自刃し、家臣侍分32人、士卒95人が殉死したという。その際、笛石山 の猫石から吹かれた笛音を聞き、既に追手が先回りをしたと思った宇野主従はもはやこれまでと自決を決めたが、その笛音は、実は味方の美作竹山城主 新免伊賀守の一族、援軍到着の知らせであったという悲話が語り継がれている。

4基の塚と板碑

間谷(マタニ)伝説と宇野遺跡

現在、大森の段には4基の五輪塔(政頼、従弟祐光、同祐政、次男祐清)と家臣の名を刻んだ板碑が建てられており、政頼の5歳の末っ子が乳母に守られ 船越山瑠璃寺に隠れ、後に、瑠璃寺の住職となった真賢法印が建てたと言伝えられているが、現在の五輪塔は江戸時代中期以降の比較的新しいもので、宇野氏の最期に同情した村人が建てた供養碑ではないかと言われている。瑠璃寺に逃れる経路とした日名倉さんから千合地谷への尾根(間谷)には今も塚と刀橋の跡が残されている。マタニ伝説

塚の入口

古戦場 千種村是 P:44~52
〈参考図書〉
千種村是
西播奥地民族資料緊急調査報告「千種」

一石五輪塔

鷹ノ巣地区にも多くの五輪塔・一石五輪塔があり、追撃を食い止めようとして討死した家臣を、村人が供養したものと伝えられている。

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