幼き頃、むかし重い荷物を持った旅人を助け歩いていた人が千種に居たと聞いた記憶がある、それが仏教界の明星と仰がれたほどの人物、教信上人であること、そして教信上人を偲んで千種念仏が始まった事などは知る由も無かった。
千種念仏
念仏は、かつては旧暦の3月9日から15日まで盛大に行われていた。
千種念仏・妙見夏まつり・川そそ祭りは、「千種三大祭り」の一つです。
西蓮寺では、教信上人をお祭りしている表の上り口にある塚に 杉の角僕で塔婆を作り、供物をしてその頭に白い布をつけてお寺の中に引っ張り込む。8日から7日間念仏をあげる。念仏には千種谷一帯の人はもちろん、波賀、鳥取、但馬、岡山方面からも参ってきた。二十五菩薩の面をつけて供養し、この面をつけるとマメ(健康)になるという。
お稚児さんもでている。町はにぎわい、立店・のぞき(金色夜叉・不死鳥・五郎正宗・須磨仇浪・地獄極楽等)などの見世物が来た。千草せんべい(ホースケセンベイ)がよく売れていたが、薄くて大きく割れ易いので、こうもりがさの柄につけたりした。
参考西播奥地民俗資料緊急調査報告「千種」
千草せんべい植戸商店
「千種町史」による千種念仏
ちくさ念仏は教信上人(きょうしんしょうにん)の徳をしのぶもので、慶慈保胤の「日本往生極楽記」、永観の「往生拾因」、西蓮寺の略縁起によると教信上人は、藤原鎌足公五代の末裔として天応五年(781)誕生、奈良興福寺において出家、修行、26歳で唯識、因明の大学者として有名になり、この世の財宝や名利のはかなさを覚り、生老病死の苦を厭いもっぱら弥陀の西方浄土を欣求され、俗事繁き奈良の都では、十分念仏もできないと56歳の時住み慣れた奈良を出て西を指して旅に出られた。
たまたま播磨賀古郡西野口にさしかかると、里の風景まことに勝れ、山は緑に海は青く、夕日静かに西海に沈むを見て、詠遊の心病み難く、ここに一の庵を結び西方には垣をつくらず、不僧不俗にして常に念仏を唱えられました。 昼は往来の人の荷物を負うて人の辛苦を助け、礼に念仏をすすめ、また田畑の手伝いをしては教えて共に念仏をせられました。ところが一人では沢山の人が救えないので阿弥陀如来に起請して5人の形を変作せられ、それよりは教信上人が6人となりたまい往来の人の望みに任せて、あるいは遠くあるいは近く請われるままに導かれたと伝えられています。 常に粗食をもって身を養い、念仏怠りたまうことなくき故当時の人は上人を阿弥陀丸と呼びました。
当時にあっては、京都や奈良から西国へ行く道は海路かこの千草街道であったらしく、ために東から西へ、西から東へ多数の旅人が往還し、教信上人も庵は賀古にあったが住所も定まらず、いたる所で教化せられ殊に千草などではいつも人を助け念仏を勧められました。因幡越えの旅人を作州坂で助けておられる同じ時刻に塩地坂にても他の旅人が教信上人に助けられていたといわれています。収穫時や田植頃にも里人の請いにより手伝いをせられ、礼として念仏を唱えさせられました。
ある時一人の旅人が西国への案内を請うたので、礼のごとく案内しての帰り道、当時平田にて病に倒れついに清和天皇の貞観八年(866)八月十五日の夜半に行年八十六歳で往生を遂げられました。時に紫雲空にたなびき音楽はるかに聞えて異香西方に薫じ、死相厳然として生けるがごとく笑めるがごとく、人みなその奇端を嘆ぜぬものはなかったと伝えます。
ここに不思議なことは上人入滅の時刻に寸分たがわず播磨摂津勝尾寺、勝如上人の戸を叩くものがあり、戸外に声ありて「吾は播磨賀古の教信なり、今正に娑婆を去って浄土に行く、上人も明年の今月今日は吾の如くなるべし、故に来て告ぐ。」といい終わって、光明赫々として室内に入る。勝如上人驚きたまい、早速弟子勝鑑をして事の真否を質さしめたまう。勝鑑賀古を経て千草に至るに果して師匠の言葉のごとくなれば、心より奇異の思いに打たれました。後、勝如上人これを聞きたまいますます念仏を唱えたまい、翌年八月十五日、教信上人お告げの日をもってめでたく往生を遂げられました。
勝鑑と共に千草に来りし賀古の人々は、庵あるをもって賀古に屍を送り返さんとするに、千草の道俗葬儀してこれを許さず。ついに争論に及び代官所の裁決によって、首と胴を分ちて両地に埋葬供養することに決しました。伝え聞くに上人に剣難の相あり、かねてこれを憂いたまいしがついに屍となって刃を受けたまう、因縁まことに不思議というべきであります。
故に賀古野口教信寺は上人の頭をまつり、上人の入滅の日(八月一五日)まで一週間を会式(野口念仏)とし、千草は代官所の裁決の日(三月一五日)まで一週間をもって会式(千草念仏)となすわけであります。現在はそれぞれ一か月おくれで新暦の九月・四月につとめています。 その時千草の諸人一宇を建立し、教信院西蓮寺と呼び、永く教信上人を供養する念仏道場としたのであります。 現在、浄土宗に属し、本尊は弥陀三尊、教信上人の木像は約200年以上前に作られたものです。 お像は、千種念仏会の間のみ厨子の開帳がなされ、人の心の奥深くまで見抜かれるような、あたかも生けるがごとき眼光を持つ立派な御像であります。
千種町史 P:633~635