飛鳥時代(592~710年)に修験道の祖、役の小角(えんのおずの)が大和よりこの山中に移り住み、行場を開いたと伝わる板馬見山。
(奈良県)大峰山とそっくりの行場が数十カ所あり、西の大峰山と伝わるまでになったとの話に、新緑まばゆい5月「板馬見山保存会」主催の山開き登山、行者コースに同行した。
後山 = 板馬見山 = 寺谷山
国土地図に記された名では「後山」、 とあるが
登山口となる河呂地区では「板馬見山」 (いたばみやま)
山頂直下の西河内地区では「寺谷山」 の名で親しまれてきた。
1344.6メートル。氷ノ山、三室山に続く兵庫県下第三位の高峰である。
松の木公園から山頂まで高低差 1,000メートル、5,700メートルの道のり、登山口までの約3kmは簡易舗装の道を車で上がる事ができるが、登山口までにも行場があり石仏がまつられている。修験者たちは行く先々で般若心経を唱え、教雲山の頂までを修行の場としてきた。
鳥居をくぐるとすぐに「迎え行者」がまつられている、その先の不動明王堂で一同拝し、般若心経を唱える。近くには “鉈取淵(なたとりぶち)” 伝説の場所と言い伝えられる淵がある。
笛石山登山口を過ぎ、道の傍らにまつられた不動明王、さらに「なめらの行者」から川を渡り、板馬見渓谷荘と回って登山道へと向かった。
- 迎え行者
- 不動明王堂
- 霊浄水
- 登山基地
- 鉈取淵
- 笛石山登山口
- 不動明王
- なめらの行者
- 板馬見渓谷荘
- 登山口(駐車可)
鉈取淵(なたとりぶち)
昔、村内有数の豪農の某家に心優しい娘がいた。娘は継母によく仕えたが、継母は事毎に辛く当った。ある日、娘が西河内川との合流点の淵の上の林に柴刈りに行き、ひと休みしようと腰をおろし、鉈を側に置くと、鉈はスルスルッとすべり、吸われるように淵に沈んだ。娘は思案にくれて帰宅すると、継母は「娘が仕事をいとうて鉈を捨てた」と誤解し口ぎたなくしかって追放した。娘は当てもなくさまよい、ついにこの淵に沈んだ。その後、この淵の周辺で鉈を手離すと、鉈は生物のように淵にすべり込み、やがて「鉈をかえせ、鉈をかえしてくれ」と訴え、次に「違う、違う、これではない」と泣き叫ぶ声が聞こえるといい伝えられ、今も、ここでは鉈を手離すことを禁じている。
- 二の沢
- 垢離取場
- 教霊の滝
- 避難小屋
- 不動の滝
- 丸太階段
- 鐘懸の行者
- 石小屋
- おごしき分岐
- 護摩跡
- がれき場
- そうめん滝
女人禁制の修行道場
9:05 登山道に入る。
二の沢の小屋を抜けると「垢離(こうり)取場」に至る。
本格的な修行道場時代にはこれより女人禁制とされていた、修験者たちの禊(みそぎ)の場所である。
避難小屋
ここも二の沢と同じく道が小屋の中を通り抜ける造りとなっている。
さらに不動滝の木橋まで上がる。
二筋の流れを持つ「不動の滝」、滝の奥に石仏がまつられている。
(どうやら緩やかな道中もここまでのようだ)
急勾配の丸太階段を上がる。
丸太階段を登ると、まだ比較的(覚悟していたよりは)緩やかと言える登山道が続くが、行場は登山道際にあるわけではない、「鐘懸(かねかけ)の行者」「石小屋」と険しい斜面を行者は辿り、般若心経を唱える。
おごしきコース平成之大馬鹿門との分岐では、一般コースを選び「護摩跡」「がれき場」へと進む。
徐々に道が険しくなっていく、展望は無いが新緑がまばゆい、この時期にしか味わえない恵みを受けながら、水量が増したときには、岩肌を流れる様がそうめんに見えるという「そうめん滝」を過ぎ、一般コースとの分岐を右にとって行者コースへと進む。10:20
- 廻り岩
- 胎内くぐり
- 屏風岩
- 股のぞき岩
- 格子岩
- 大のぞき岩
- 熊穴
「行者道」の名がふさわしい厳しい道のり
一般コース1600mに対し、行者コース980m、距離が短いと言う事は急勾配の証、
行者コースに入る。いきなりロープにつかまっての直登が待ち受ける。
次から次へと出てくるロープ。登るにつれ谷の深さは増して行く、もはや四足歩行でなけ
れば進めない、地に手を添えなければ高さへの恐怖も抑えられないのだ、にもかか
わらず行者たちは「廻り岩」「大のぞき岩」と、更なる
高台へと上がる、とても「我も登り写真を」などと思える高さではない。
格子岩を見上げる、垂直に伸びたロープ。これを登るのか(来るんじゃ
なかった)と嘆きながらも登るしかない。カメラを構える事も困難
な道のりが続く、「熊落し行場」を過ぎると程なく一般コース
と合流、平坦な尾根道に安堵のため息。笹に包まれて
山頂へ 11:50
下山は、おごしきコース平成之大馬鹿門
へとまわり、新緑のブナ林に癒され
ながらの帰路であった。